権禰宜が日々起こったことや感じたことを書き留めておきます。

正義と平和の使者について


 御朱印を授与された方には「はさみ紙」を一枚お渡ししている

 他で授与された御朱印に、当社で押した印の朱肉などが付かないようにするためだ。

 「はさみ紙」には、キツネの顔のデザインが施されている。
 カラーもシルバー、ピンク、ブルー、グリーン、イエローの五色の種類がある。
 自分で描いたせいか、禰宜は「キツネ戦隊コーンファイブ」、と名付けているようだ。

 無論、モチーフは、地球の平和を守る正義の集団「秘密戦隊ゴレンジャー」である。

 そこまでは、まあ良かった。

 あるとき、戦隊と名乗るからにはゴレンジャーのように「必殺技」を与えたい、と禰宜が言った。
 勝手に戦隊と名付けておいて、それぞれに必殺技があるというのも、何も知らない子供に武器を持たせるような気がして如何なものかと思う。


 そもそもはさみ紙がどれだけ直接的に「地球の平和」に寄与できるかもわからないが、一応、考えるには考えた。

 たしか、ゴレンジャーには、アカレンジャ―の「レッドビュート」や、アオレンジャーの「ブルーチェリー」、ミドレンジャーには「ミドメラン」とかいうのがあったはずだ。
 そこで、瞬間的に想像したものは、

 

 シルバー・フォックス→前田「ギン」(再考中)
 ブルー・フォックス→ガク「ブル」
 ピンク・フォックス→「Pink」ara兄弟
 グリーン・フォックス→つか「みどり」
 イエロー・フォックス→カレー。

 

 これが技の名前として成立するものかは、些か自信がない。

 

 ただ、過去の記憶が蘇ってきた。
 「ゴレンジャー」は確か、自分が小学校4年の時に始まったはずだ。
 長野へ「修学旅行」に行き、帰宅した途端にテレビからテーマソングが流れ、それが第一話だったから覚えているのだ。

 昭和50年以前は、ヒーローものと言えば、「多」対「一」で、悪者は「多」であると相場が決まっていた。
 仮面ライダーしかり、ウルトラマンしかり、時代劇もしかり、である。

 まあ、仮面ライダーなどは「〇人ライダー結集」みたいな企画に、随分と興奮した記憶もあるので、潜在的に「一」だけではマンネリと感じている部分もあったのだろう。

 それは自分のみならず、他の子どもたちそうだったろうと思う。
 しかし、それはスペシャルなことであって、恒常的に正義のヒーローが多数という話はこれが最初であったと記憶する。
 その意味では子供たちの奥底の夢をくみ取った斬新な番組であったのかも知れない。

 

 さて、話を必殺技に戻す。


 必殺技、あるいは武器の名を叫びながら相手に攻撃をするのは正義の「ヒーローもの」の常である。
 ゴレンジャーとて例外ではない。
 アカレンジャーが「レッドビュート」と叫ぶと、手には太い鞭が忽然と表れる。
 しかし、その叫びが武器の出現の要素だとしたら……。

 勇ましく「レッ『ト』ビュート」叫んで飛び掛かってもその手には鞭は無く、アカレンジャーはむなしく「丸腰」のまま、相手に組み付くという原始的かつ不利な戦いを強いられることになる。

 なにしろ相手はバズーカやレーザー、怪光線や毒を武器とする怪人だ。
 アカレンジャーがひとたまりもなくやられる可能性だってある。

 レッドとレット。この「ト」の濁音の有無が、アカレンジャーの命、ひいては地球の死命を制することにもなりかねないのだ。

 ならば、武器名を叫ぶという動作が無く、黙々と戦えばどうだろうか。
 視聴者には、いきなり不躾に「鞭」を取り出し、相手をひたすら殴りつけるというように見えるだろう。

 

 おそらく、ただの「卑怯者」と見られるのではないか。

 

 それで思い出したことがある。
 かつて、プロレスの名悪役に「ザ・シーク」というレスラーがいた。
 彼はピンチになると、いったん後ろを向き、振り向きざまに、トランクスからオイルライターなど火種を取り出して、日本の善玉レスラーをに火炎攻撃をした。
 驚き、のたうつ馬場、猪木、坂口選手。

 しかし、これはアカレンジヤーの不意をつく攻撃に等しいのではないのか。タイガー。ジェット・シンのサーベルしかり、上田馬之助の竹刀しかり、である。
 「きたねえぞ、シーク。正々堂々と闘え!シン!」
 場内の罵声、怒声がテレビ越しに聞こえてきたことを思い出す。

 しかし、不躾攻撃を繰り出すアカレンジャーを絶対正義の使者とするならば、シーク達が正義のレスラーではないと誰が否定できようか。


 いや、今、この段で掛け声を出すか否かを問題にすべきではない。
 イエロー・フォックスが「カレー」と叫びながらホカホカのカレーを出したところで、相手が「まゐったァ」と爆散するとは思えない。

 ピンク・フォックスが「Pinkara兄弟」と叫びながら「おんなの道」を歌っても、相手は怒りこそすれ、しかしノーダメージであろう。

 

 ヒーローは孤高だ。

 だから、我々凡人には、その哲学や行為の意味ははかり知ることはできないのだ。きっと。
 ただ、思うに、世界平和というものはヒーロー一人あるいは五人の肩に乗っているわけで、大変不安定なものに相違はないのだろう。「民族間紛争」や「地球温暖化」などと同様、危ういバランスの上で成立しているものだろうと納得する、べきかも知れない。

 

 さて、ゴレンジャー5名の最終必殺技は「ゴレンジャーストーム」である。
 これが非常にしょぼくて、最初はバレーボールに銀の塗料を塗りたくっただけのものだった。
 そしてそれを一目見て高校生の兄が噴き出したことを覚えている。

 

 「ハッハァ、何とも子供だましな仕掛けだなァ」。


 それから45年。コーンファイブの最終必殺技を考えながら、「はさみ紙」を見つめる。
 いきなり「コーンファイブ」と名付けられた彼らに感情あらば、さぞや戸惑っていることだろう。

 

 そもそも、我々は「はさみ紙」にそんな技を繰り出すことが出来ないことも分かっている。

 けれど、そんな益体もないことに拘泥している禰宜と権禰宜である。

 

 我々は、いまだ「子供だまし」に騙され続けていることを楽しんでいるのかも知れない。

 

 そして、実のところ「はさみ紙」が持つ意味は「他ページに墨が付かぬように」だけではない。

 勿論「はさみ紙」には正義や平和のために戦ってもらうつもりもないけれど。


 当社より御朱印を授与された方が、神さまの威をもっと身近に感じられるような。

 「はさみ紙」、即ちコーンファイブには、その案内役になって貰えれば良いと期待しているのだ。(権禰宜 記)

令和元年十月四日

 

再々々度、NIKON D70


 しばらく休んでいたが、最近また写真を撮り始めた。

 

 きっかけはわりあい単純なことだった。
 これまでの「かぼちゃ祭り」の記録写真が殆ど残っていなかったので、大祭の実行委員会の方から、「今年は撮っておこうよ」と提案を受けたからである。
 しかし、何故自分なのか。
 「権禰宜さんが大きなカメラ(たぶん一眼レフのこと)を持っているのは知っていますよ」。

 気が引けないこともなかったが、後々のために記録を残すのは悪いことではない、はずだ。

 

 そこで、久しぶりにカメラを取り出した。
 出版社に在籍していたころは、仕事でも写真を撮ったものだ。
 ところが、新潟に来てから、ほぼ四年ほどカメラを握っていなかったので、使用方法をすっかり忘れてしまった。
 所有の機種名はNIKONのD300。
 確か、かつて大枚をはたいて(中古で)入手したカメラだが、インテリア扱いで、まともに使用していなかったせいもある。
 何より、高性能を売りにしていたためか、異常に多機能である。というか、いじるべきところが多すぎて困ってしまうのだ。

 

 昔のフィルムカメラならば、動かす箇所はほぼ決まっていて、メーカーが違っても、またどんな機種にも対応ができた。
 おそらく、自分は今だって問題なく動かせると思う。

 

 しかし、デジタル一眼レフというのは厄介なものである。
 各メーカーごとにダイアル等のレイアウトや機能が違う。
 また、同じメーカーでもカメラのグレードによってボタンの役割が違う。
 あまつさえ、発売時期が数年も違うと、その後継機であっても全く別物になっていたりするのだ。今はこのD300の後継機がどのように進化しているかわからないが、ひょっとするとベラベラ喋ったり、へこへこ目的物を追走する機能までありそうだ。

 

 それはともかく。
 大祭は近づく。

 大きなカメラというのが記録写真の条件ならば、やはり一眼レフを使うべきであろう。


 しかし、カメラの使い方が分からない。

 説明書を読もうとしたが、購入時よりさらに老眼が進んだ自分には、小さい字の羅列を見る気が起こらない。


 どうしたものかと考えているうちに、「第三の男」よろしく大祭はさらに迫ってくる。

 よくよく考えれば、あくまで写真を残すことが第一義のはずである。
 使用すべきカメラなど、二の次、三の次の話であるが、この時点で、自分は目的と手段を入れ違えてしまったのだった。


 ま、一眼ならば何でもありかということで、結局、若いころに使っていたデジタル一眼レフを使用することにした。

 機種の名前はNIKONのD70という。
 実はこの機種はデジタル一眼レフの黎明期に発売されたもので、操作がフィルムカメラのそれに近かったせいもある。
 なにしろ、何年も、何度も使って来たのだ。


 これなら、うまくいく。

 

 が、しかし、実機が手元にない。
 どうしたことだと考えてみるに、東京にいた時分、会社の後輩に進呈してしまったのだった。

 良く思い出してみると、実はこの機種、使用しては手放す、また購入しては手放すを繰り返してこれまでに三台が無償で人手に渡っていた。
 一台目は壊れたのを自力で修理して、欲しいという友人に進呈した。
 二台目は、新しいカメラを入手したため、仕事で使用したいという会社の若手後輩に譲ってしまったのだった。三台目もまたしかり、である。
 そして、そのたびに新しいカメラのD300を持ち出すのだが、余計なお世話的な機能が鬱陶しくて、やはり使用をやめてしまう。

 

 つまり、新しいカメラを購入する→友人・後輩にD70を譲る→新しいカメラを使う→しかし新機能に頭がついていかない→またD70を入手する、ということを三回やっていたのだった。

 

 馬鹿な奴と笑わばわらえ。

 

 こうなれば、四台目のD70を入手してやる。
 ネットで情報を漁ると、この機種はとうに修理部品の保有期限が切れ、ほぼジャンクとして「ハードオフ」などのがらくた箱にうずもれているケースが多いという話だ。
 そんなわけでオークションで見つけたのは、千円を少し超える程度の「ジャンク」であった。
 でもジャンクとは言え、どうやら作動はしそうだ。

 

 かくして入手。調整したら問題なく使用できるようになった。

 とはいえ、途中で動かなくなる不安も拭い去れなかったので、「おっかなびっくり」の中での使用であったが、この「ジャンク」は無事に祭りの詳細を記録してくれた。

 

 これで「めでたし」なのだが、このD70という機種にはちょっとばかり思うところがある。

 

 平成十六年の冬、このカメラが売り出された初日に、会社員(それから二回転職しているが……)だった自分は上司の私的命令で東京の新宿ヨドバシカメラに「これ」を買いに走ったことを思い出す。


 確か、レンズ付きで十五万円なにがしかに、消費税を合わせた価格だったと記憶している。
 品物を受けた上司が新品の箱を開けるのを見て、本当に羨ましかったことも忘れない。
 上司の代わりに説明書を熟読し、彼に使い方を解説したこともあった。(尤もこのおかげでこのカメラの使用法を覚えているのかも知れないが……)

 

 どうあれ、そんな高価なカメラがレンズなしとは言え、千円程度の価格になっている。

 自分は、一台目を目黒の中古屋で四万近い金額で入手した。二台目は数年後にオークションで二万円。三台目もオークションで落札、一万円台で購入したものだ。


 機械ならば、経年につれ価値を下げて行くのは仕方がないこと。
 それが世の常だが、この機種は、発売当時に比べ、1パーセントを切る価格になってしまったのだ。


 まさか、この十五年のうちにカメラの価値そのものが「1パーセント」になったのだろうか。
 否、断じて思いたくはない。現に使えているではないか。

 

 けれど、自分が、最初にこのカメラを進呈した友人はすでにこの世を去り、二台目、三台目を渡した当時の若手社員二人は何年か前に退社、転職をしたと聞く。

 

 D70をセーム皮で拭きながら思う。

 自分が何一つ変わらないと思っても、それは単なる願望でしかなく、本当はいつの間にか置いてきぼりにされているだけなんじゃないのか。


 この先、自分はこれをきっかけとして、つまるところ「D70」を使って写真を撮って行くのだろうな、と何となく思う。

 しかし、すでに老体であるというこのカメラに自分の年齢を映し見ると、どうにもやりきれない気持ちにもなるのだ。

(権禰宜 記)

令和元年九月二十四日

 

 

なぜか、心さびしくもある。


 大祭が終わった。

 今年は大祭の二日に加え、準備の時も片付けの時も天気に恵まれた。
 これは大変に珍しいことで、権禰宜が新潟に居る年は、大祭と前後の四日間で雨の降らなかった日はないと記憶している。

 

 なんでも九月九日。・十日前後は、立春から二百十日と言われる日に当たり、天気が荒れると江戸時代から言われてきたそうだ。

 案の定、本年も、台風が関東に上陸して千葉県に甚大な被害をもたらした。
 被害に遭われた方々には心よりもお見舞いの言葉を申し上げたい。

 

 新潟のこの地も、雨風で天候が荒れると予想されたが、台風が逸れて事なきを得た。
 大祭は、好天に加え、町の方々のお力で、大変な活況を呈した。

 

 例年は、雨のせいでバタバタと慌ただしく大祭を無事に終わらせることに腐心してきたが、今年は最後まで落ち着いて大祭に向き合えたと思う。
 だからなのか、お祭りが終わったことが、少し淋しく感じられる。


 「かぼちゃ祭り」で当町においでくださった方々に心から御礼を申し上げたい。

 仕事や日々の生活に優先して大祭に協力して下さった大町五丁目の方々には感謝するばかりである。

 

 そして、宮司家には、大祭を見届けて九月十一日に世を去った十七歳の雌猫がいる。

 九月八日に重篤な状態になり、けれど精一杯、「忌み」を避けてくれたのだと思う。

 

 彼女が眠る墓に、ねぎらいの言葉をかけたい。

 

 すべてがつつがなく終わり、晴れやかな気持ちがある、はずだが、何故か心さびしい。(権禰宜 記)

令和元年九月二十二日

 

むかしあったげな。


 むかし、当社にあったという五輪の搭を見に行った。
 少なくとも高田の街ができる以前からこの地に立っていたという。

 

 古文書を見ると、現在神社のある地には昔から祠があったとされているが、後年描かれた越後中将松平光長時代の地図を見ると、この土地には八百石取りの「岡島某」の名前が見られる。この男、現代の金額に換算すると年間五千万以上の収入を得ているわけで、なかなかのお大尽である。

 

 なにせブロークンでしか文書が残っていないので今ひとつ詳細はわかりかねるのがもどかしい。どうしたことか、その頃現在の宮司家である中島家は魚沼から移住してきて、三郷村に住んでいた。

 

 なんでも、それから少しばかりの時が流れ、綱吉の時代の地図ではここに岡島の名はなく、既に「宮」として記載されているようだ。この間中島がどういう経緯でこちらの宮に入ったのか不明だが、魚沼時代に引き続き神官として奉仕をこの地ですることになったということらしい。

 

 ところで先住者の「岡島某」はどうなったのか。
 この家の名は高田城下の地図上で何軒か見られるが、みんな揃って高給取りである。恐らく主家は「岡島壱岐守」だったのであろう。越後騒動に深く関わった彼は、やがて三宅島に遠島にされてしまったので、またこの「岡島某」もヌケヌケとこの地に住み続けることはかなわなかったに違いあるまい。
 どうあれ、彼はこの町におらず、その跡地に中島が移って、令和の現在まで住んでいることはまぎれもない事実である。


 さて、話はこの五輪の搭である。
 高さは三から四尺程度であろうか。割合原石系を積み上げて、しかも補修の後もたくさんある。
 こうした搭だが、高田市史や頚城郡誌稿、さらにもっと古い文書によると、松平忠輝時代には、榎と祠と一緒に祀られていたらしい。

 その後、この搭は現大町二丁目の乙吉稲荷に移され、江戸時代の末期には現東城町三丁目の三長吏(榊原時代の地図だとこれで「さんちょうじ」と読むみたいだ)稲荷神社、つまり出丸稲荷神社に移されたとある。

 

 なんだかなぁ、と。
 江戸時代には石搭の贈答という風習があったのだろうか。
 んなこたァ、あるまい。

 「ちょっ! 岡島さん。勝手に移さないで下さいよ!」。歴史が分かんなくなるでしょ!。
 こちらには言いたいことが山ほどある。

 

 ま、こちらの勝手はともかく、岡島某の名がある地図は延宝年間のもの。彼にしてみれば大地震の後に小栗美作に区画整理を断行され、好む好まざるとに関わらず、当地に居を構えた可能性だってある。

 「小栗殿……俺……ここですか?ここに住むんすか?」。

 大きい榎はあるし祠もある。加えて五輪の搭だ。
 朝晩の祈りには適しているが、家をどう建てたものか。
 そのような中で、岡島某が何か妙案を考えたとしても不思議ではない。

  「まてよ。五輪の搭は何とか融通がききそうだ……ふふ」。

 

 かくして乙吉稲荷神社へ寄進され、現在地へ。
 時代によって、場所によって、また関わる人によってその価値が変わってくるのは仕方がない話だが、定かなものも何もない。真相というものは日の目を見るまで、どこかで眠っているものだ。

 わかっているのは、五輪の搭の置き場所が移って行ったことだけである。


 さて、現代に戻って、このところ、高田城再建の話がでているという。
 高田城は、当然、五ノ辻稲荷神社にあったという五輪の塔より新しく、建っていたいた期間も短い。
 しかもその後に十三師団の本部が設置されたが、それも壊されて今はない。本丸には新制の中学校があり、城の面影はおそろしく薄い。城を模した櫓はあるが、やはり歴史の香りは漂わない。

 なーんとなくすべてが「新しっぽい」のだ。

 

 高田城再興の眼目は「観光」にあるとうわさされている。
 勿論、それ自体は悪いことではないと思う。
 それにつれ、何故、城という文化財を残さなかったのか、という話も聞くが、当時の人も「今」を生きているわけで、今が未来の過去になるとは決して思うまい。その時は、それ以上に必要なことがあったのだ。


 高田城は再建されるかも知れない。
 けれど、それどころか、何十年か後には、城より高田十三師団の建物再建という話になるかも知れないなと感じる。
 きっと、人間というのはかなり刹那的な生き物なのだ。


 出丸稲荷にある五輪の搭に触れても、「懐古」すべき何かは感じられなかった。


 ただ、少しばかり複雑な思いが交錯したことだけは、しばらく忘れないと思う。(権禰宜 記)

令和元年九月十九日